どようのつちのひクラシック音楽

続・どようのつちのひ 「CD時代の抱き合わせ」

この記事は約4分で読めます。

おひさしぶりです。気づけば前投稿から1年以上の間が。

今春からカメラが新たな趣味に加わり、ブログそっちのけで遊んでました。
「STUDIO465」の名的にカメラも違和感無いし、そのうちカメラも何か書くかもしれません。
放置よりは何かしら更新し続ける方が有意義ですし。
あとブログのデザインがあまりに簡素なので、そのへんも手を加えたいところ。


前回「クラシック関係の話をゆるーくやっていこう」ってな感じで書いた記事、その時はシリーズ名が決められず無題だったのですが、未だに決められないので「続・どようのつちのひ」というとても安直なネーミングにします。不定期更新なのでナンバリングは無し。当初はコンセプトを略して「ゆるクラ」にしようと思ってたんですが、それでググるとわんさか引っかかるので。

さて、本題。

最近はクラシックにもダウンロード販売やサブスクリプション系のサービスが普及しはじめ、聴きたい曲だけを直接検索して視聴するというスタイルも増えてきました。

聴きたい曲を簡単に取り出せる点でクラシック曲への知識が有る人にとっては便利なサービスなのですが、一方で曲名が分からないと検索が困難だったり、曲名が分かっていてもクラシック曲は曲名が長くなりがちでスマホ環境では検索結果が閲覧しずらかったり、そもそも存在を把握していない曲とは巡り会えないといった欠点も持ち合わせています。

そういった点でCDはかなり有効なメディアでした。
曲名が分からないと買えないのは同様ですが、ジャケットには分かりやすく曲名が並び、多くのCDには曲目解説が付属されています。そして何よりCDには目的の曲以外の「抱き合わせ」が良くくっついて来ます。

「抱き合わせ」と言うと品が無いので、本来ならば「カップリング」と言うのが望ましいのでしょうが、交響曲のCDにはディスク内にお約束の如くついてくる定番曲というのが数多く存在し、交響曲目当てでしか買い漁っていなかった当時の自分にとってこれらの曲は「抱き合わせ」でしかありませんでした。

今振り返ってみると「抱き合わせ」によって得た知識というのは多く、この文化が廃れていくのは少し寂しい気もします。ただ、今でも生の演奏会であれば有名曲をメインに据えつつ、サブでマイナー曲の魅力を発信するパターンは良く見かけます。CD文化が廃れつつある今こそ、そういった機会で新たな音楽との出会いをより一層大事にして行きたいですね。

話を戻して、その抱き合わせが一番顕著だと個人的に思っている作曲家がブラームス。
交響曲は4曲しか無いのですが、どの曲も演奏時間が交響曲を2曲ずつでCD2枚に収めるには難しく、単曲だとちと物足りないという見事な「帯に短したすきに長し」っぷり。しかも間を埋めるのにちょうど良い曲もそれなりに有るのがブラームス。

というわけで「交響曲しか買ってないのにきっと手元にある音楽」から一つをご紹介。

ブラームス ハイドンの主題による変奏曲(1873)

昔の自分は(今も割とそうですが)派手な音楽が好きで、ブラームスの交響曲の力強いフィナーレ(3番は違うけど)の後にこれを聴かされると…まぁ肩透かしというか興ざめした訳ですよ。

なんと言ってもあまりに長閑で牧歌的なこの主題。
明るく楽しく横揺れしたくなるので「おゆうぎ会」とか言ってました。

…散々な事を言ってますが、あくまで交響曲の後に流れてくる事に対するギャップからの意見ですからね?

曲名に「ハイドンの主題」と有りますが、この主題は「聖アントニウスのコラール」として知られた物で「聖アントニウスのコラールによる変奏曲」と書かれる事も有るとか。私は見た事が有りませんが。しかもハイドンの作曲した楽譜が本物かどうか疑わしいという話も有るので、贋作と分かれば聖アントニウスの名に置き換えられて行ったりするのかもしれません。

交響曲第1番以前の作曲ですが、変奏の幅広さは後の第4交響曲の終楽章に通ずるものがあります。前半の第1~第4変奏曲は調の長短が交互に来る事による緩急、第5~第7は長調が続きますが音楽的な盛り上がりによる緩急。そして第8変奏の不穏な音楽から荘厳な終曲への移行と構成はシンプルですが、その分落ち着いて聴ける音楽になっています。

聴き終えた後に改めて主題を聴き直すと「あの大人しかった子がこんなに逞しく成長して…」みたいな謎の感動を覚える事必至。

個人的には第6変奏が大好きです。縦ノリ出来る曲だいたい好き。

ちなみに、この曲には2台のピアノによる連弾版が存在します。というかピアノ版の方が先に作曲されました。互いにオリジナルな要素は無く、全く同じ構成となっています。

管弦楽版を聴いた後にピアノ版を聴いてみると、また違った印象を受けるかもしれません。