ショスタコ特集 その1(2が有るのかは不明)
ショスタコーヴィチ 『祝典序曲』
1954年作曲。
1954年というと作曲家としては傑作交響曲第10番を発表した時期。
ヴォルガ・ドン運河と言う名前を世界地理で聞いたことが有るかもしれない。その運河の開通式に演奏されたのがこの曲である。
この開通式の演奏を任された指揮者が開幕にふさわしい曲が無い事に気づき数日前に作曲を依頼、3日で書き上げたと言うエピソードがある。
3日と言うと凄まじい速筆だが、この曲に関しては1947年に十月革命30周年を記念して作曲したが未発表のまま時が過ぎ1954年に改作したと言う経緯が有るので「ベースが有るならこんなものか」と思われるかもしれない。
ではこの曲はどうだろう。
ショスタコーヴィチ 『タヒチ・トロット』
1927年作曲。
交響曲第2番を作曲した時期。この第2交響曲は工場のような機械的な雑然さを感じさせる色の褪せた前衛音楽で、それと聴き比べると音色の豊かさのギャップに驚くことだろう。
この曲にもベースが存在する。この曲に至っては自作ですらなく1925年のヒットソング『二人でお茶を』の編曲である。
とある指揮者の自宅に招かれ「今から流す曲を記憶して1時間以内に編曲したら、自分の演奏会で取り上げよう(お金という説もある)」という賭けに乗り45分で書き上げたというエピソードが残されている。
ただし、自筆譜には手直しが多く、このエピソードも出処が不明なのでショスタコーヴィチの速筆ぶりを盛った創作である可能性はある。ショスタコーヴィチの速筆ぶりは本当で、交響曲の様な大作でも数ヶ月で書き上げる事が殆どだった。
ショスタコと言うと「暗くて重い曲」のイメージがある方も多いと思う。実際そういう曲が多いのは確かだが、そういう曲ばかり書いていたわけでは無いのがこの曲を聴けば分かる。映画音楽やジャズからの影響も大きく、この曲以外にもそのものズバリな『ジャズ組曲』も作曲している。
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)
はソ連時代の作曲家。
才能は学生時代より注目されており、長らく社会主義体制のプロパガンダ作曲家として利用される事となる。作曲家にとってそれは全く本意では無く、作曲で時折反骨精神を見せるものの、その度に生命の危機に晒され、そしてその都度体制に迎合した(と見せかけた)傑作を残し名誉を回復してきた。
体制に迎合しないと簡単に粛清される時代、作曲家と親しかった人も何人も粛清されている。
その一方で、国土に対する愛は人一倍持っており、著名な音楽家が粛清を恐れ続々と国外へ亡命する中、ショスタコーヴィチは生涯を終えるまでソ連で過ごした。以前のコラムでも少し取り上げたが、
ナチスドイツ包囲網のレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)で書き上げられた交響曲第7番は強烈な愛国心からの発露であり、この曲の作曲前には義勇兵への参加を強く希望するも「天才をここで死なせてなるものかと」周囲からの説得を受けたというエピソードも残されている。
この様な経緯から、戦争が終結するまで作曲家の情報は国外へ広まらず(曲自体の演奏は西側諸国でも行われていた)、公式の発言も当局の監視から自由には言う事ができなかったため、「体制側の人間」という印象が長く付きまとう事となった。
作曲家の死後『ショスタコーヴィチの証言』という本が出版され、その内容で作曲家の体制への反抗が世界的にも明らかとなる…のだがこの本は今日では真偽入り乱れる偽書扱いされており、作曲家の正確な本心を知る手がかりは限りなく少ないと言うのが現状である。