「指揮者になる方法」
どんなに優秀な人でも資格や経歴が無いと中々良い印象を与えられないのと似た話ですが、どんなに音楽的才能が有っても、コンクールなどで結果を残せないと中々知名度は上がりません。逆にコンクールが絶頂期でそれ以降は下降線とかでも結構長い間チヤホヤされたりしてしまうのが世の中です。世知辛いですね。
というわけで音楽家のプロフィールには大抵経歴が載っています。
芸大を出て、大学院行って、留学して、◯◯コンクールに入賞とか、△△交響楽団を指揮、著名ソリストと共演などなど。
各項目の「格」の差こそ十人十色ですが、大体皆こんな事が書いてあります。
この経歴が特に重要なのが指揮者で、100人近い演奏家集団に舐められない為にも楽団の顔としての集客力にも効果を発揮するのが経歴の格だったりします。
指揮者を目指そうと思うと、経歴以前に指揮者の需要そのものが演奏家より圧倒的に少ないので、指揮を学ぶ事自体が狭き門です。例えば東京芸術大学の器楽科の募集は毎年約100名ですが、指揮科は何人だと思いますか?2人です。たったの。
指揮者になるのって大変なんです。
本当でしょうか?
今回はそれとは全く違う方法で有名指揮者になった人を紹介します。
今までのは長い前フリでした。
ギルバート・キャプラン(1941-2016)
音楽家としての経歴は彼には全くありません。その代わり彼にはお金が有りました。彼は若くして財を成した実業家です。彼はお金でオーケストラを買い、それを指揮したのです。
金で買われた以上はオケの奏者だってぐちぐち言えないだろうし、所詮は金持ちの道楽。それはキャプラン自身も理解していて、演奏会1回で終わりにしようと考えていました。ところがこの演奏会が大ウケ。他所のオーケストラからオファーが来る事態にまで発展します。その評判が評判を呼んだ結果、ついにはウィーンフィルの指揮台にまで彼は立つ事になります。
そもそものきっかけは、「音の魔術師」とも呼ばれた名指揮者ストコフスキーが指揮した演奏会。曲目はマーラーの交響曲第2番『復活』でした。マーラーの初期交響曲の傑作の1つで(マーラーには傑作でない交響曲が存在しないのでこの表現はあまり正確ではありませんが)、キャプランはこの曲にとにかく惚れ込みます。合唱にソリスト、オルガン、オケ自体も超大編成のこの大曲をいつか自分の手で指揮してみたいと。
それまで音楽教育を受けた事が無かった彼は、30代半ばにしてゲオルグ・ショルティ(こちらも名指揮者)に指揮を教わりはじめ、40代でついに先述した念願の演奏会に至り聴衆から喝采を浴びます。『復活』だけに情熱を注ぎこの曲だけを学び続けた結果、いつしか彼はこの曲のエキスパートになっていたのです。
そういった経緯なので、その後の演奏も『復活』のみ。世界各地の様々なオーケストラで彼はこの曲だけを振り続けました。
「素人が振った」という話題性も少なからず有ったとは思いますが、キャプランがロンドン交響楽団を指揮した演奏のCDは全世界で17万枚以上売れるクラシック界では異例のベストセラーとなっています。今ではもう廃盤ですが、その演奏は決して話題性だけでは無く、評論家からの評価も高いものだったそうです。
この『復活』好き実業家の活動は指揮だけに留まりません。
世界中で指揮をする様になったキャプランは、自身が持つ総譜とオーケストラが持つパート譜の間にミスや不整合が多々起こる事に対してやきもきしていました。出版社は作曲家が手書きで書いた楽譜を写譜して出版するため、こういったトラブルはこの曲に限らずしばしば起こります。そこで、キャプランはこの曲の自筆譜を買い取り、音楽学者と協力して問題となる箇所を詰めていくと言う作業に取り掛かりました。その末に完成したのがキャプラン校訂版と言われる楽譜です。この校訂作業の功績はマーラー協会も認めており、正式に出版もされました。
ウィーンフィルとの関わりはこの校訂作業がきっかけです。
校訂作業のための資料集めの照会先だったウィーンフィルが逆にこの校訂版に興味を持ち、その活動に感激したウィーンフィルの当時の副団長がキャプランを招いた事によりウィーンフィルとの演奏が実現しました。こちらのCDは現在もまだ販売されており、今でも『復活』の名演の1つとして数えられています。
キャプランは2016年の元日に息を引き取ります。
その後、『復活』の自筆譜は競売に掛けられ、落札者非公表で落札されました。非公表の落札という事で今後実物を拝む機会は失われてしまうのかもしれません。ちなみに自筆譜のファクシミリはキャプラン版を出版に先立ちキャプランの手により出版されています。
(参考)
マーラー「復活」の自筆譜、6億円で落札 史上最高:朝日新聞デジタル
さて、冒頭まで話を戻しまして
指揮者になるのって大変なんです。
本当でしょうか?
というお話。
長いキャリアを積まずとも、お金と情熱さえ有れば指揮者に成れると言う事がわかりました。
指揮者になるのって簡単なんです。
本当でしょうか?
キャプランが心酔し指揮を志すに至った『復活』ですが、同じ様にこの曲に心酔し指揮者を志した人が他にも居ます。現在ベルリンフィルの首席指揮者を務めるサイモン・ラトルです。キャプランとは違い、彼は正規(?)の手順で指揮者になりましたが。
この曲にはそれだけ人々を魅了する力が有ります。
実は私は特別この曲が好きというわけでは無かったのですが、生演奏を聴いてから考えを大きく改めました。何か得体の知れぬ巨大な力に心を揺さぶられる感覚と言うのはこの曲以外で味わう事は無い、と言い切ってしまっても良いかもしれません。今では愛聴曲の1つです。編成の大きさから実演の機会は少ないですが、演奏会が有ったら是非足を運んでみて下さい。この曲はスケールが大きすぎてCDには収まりきっていない事が良く分かると思います。
初めて聴いた生演奏が『復活』だったら…ひょっとすると私も指揮者を目指したりしていたのかもしれません。