どようのつちのひクラシック音楽

どようのつちのひ 55

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前回のコラムでマーラーの「巨人」を取り上げましたが、今までのコラムを思い返すとマーラーに関する話題が結構有ったのでここでまとめてみようかと思います。自分自身何を書いたかそろそろ忘れてきたので…。ぷち総集編。


先述の通り、前回(54回)交響曲第1番「巨人」を取り上げました。オーケストラ曲で奏者が立ち上がって演奏するちょっと珍しい光景のお話。

どようのつちのひ 54
マーラー 交響曲第1番「巨人」より第4楽章(1896) このコラムではあまりに長い曲は極力取り上げない方針なのですが、今回紹介する曲は4楽章だけでも20分程あります。ただ、マーラーの交響曲の中ではこれでも短い方だったり。 ...

続く交響曲第2番「復活」もコラム15回(指揮者になる方法)で取り上げています。あまりに音楽的な規模の大きい曲でこの曲に憧れて指揮者を目指す人も多いと言う内容でした。

どようのつちのひ 15
「指揮者になる方法」 どんなに優秀な人でも資格や経歴が無いと中々良い印象を与えられないのと似た話ですが、どんなに音楽的才能が有っても、コンクールなどで結果を残せないと中々知名度は上がりません。逆にコンクールが絶頂期でそれ以降は下降線とかで...

そして「第9のジンクス」について書いたコラム16回でナンバリングを避けた交響曲「大地の歌」、交響曲第9番、そしてやはり未完に終わってしまった交響曲第10番に触れています。

どようのつちのひ 16
クラシック界隈には「第9の呪い」と呼ばれる話が有ります。 交響曲を9つ書くと死ぬと言う作曲家のジンクスです。実は厳密にこのジンクスが適用される作曲家というのはあまり多くないのですが、交響曲の大家が交響曲を9曲程度書いた頃に亡くなっているの...

あれ、案外少ない…でも交響曲11曲中5曲も取り上げてるなら多い方でしょうか。中間の交響曲がごっそり抜けてますね。5番6番は有名なので今後取り上げる事もあると思います。


クラシック愛好家の中で「大曲好き」というタイプには「ブルックナー」「マーラー」「ショスタコーヴィチ」とざっくり3つの派閥があります。兼任する人も多数居ますが、兼任していても「専門はブルックナー」と言った風にメインは1つに絞られる人が多い気がします。掛け持ちが多いくらいですから、派閥と言っても間に争いが有るわけでもありません(全く無い訳でも無い)

勿論他の大曲作家も居るのですが、この3人に共通するのは「交響曲の大家」と言う所です。この3派閥に後ひとり無理やり入れるなら筆頭に上がるのはワーグナーでしょうが、ワーグナーは交響曲を殆ど残していません。

ちなみにこの3人、生きた時代はかなり違います。
・ブルックナー(1824-1896,オーストリア)
・マーラー(1860-1911,オーストリア)
・ショスタコーヴィチ(1906-1975,ロシア)

マーラーはブルックナーの講義を聴講しており、ショスタコーヴィチはマーラーの交響曲スコアの研究に熱心だった辺り繋がりが無いわけでは無いのですが、音楽的には完璧に三者三様です。

私は一応ショスタコーヴィチ派閥だったりするのですが、ブルックナーもマーラーもそれなりに聴きます。


この3人の中で一番とっつき易い作曲家はマーラーだと思っています。

ブルックナーは神に捧げる神のための音楽、ショスタコーヴィチに至ってはソ連当局にマークされ続けた結果、どこに本音が有るのか分からない音楽。それに対してマーラーは個人の感情の発露に特化している所があります。

マーラーは特に愛については多くの曲で主要テーマとなっており、不貞を働いている妻(相当な才女で芸術界で浮名を流した)への捨てきれぬ愛をこれでもかとぶつけて来る交響曲第10番に至ってはスコアに文章で妻への愛が記されている程。

また、人の生死がテーマの曲も多いです。
交響曲第2番「復活」では「死は新たな生への旅立ち」と高らかに謳い、交響曲「大地の歌」では東洋思想に触れ「輪廻転生」を語ります。前者が宗教的でエネルギッシュだった事に対し、後者は思想的で内向的な音楽なのが面白い所。

そして英雄譚。
交響曲第1番「巨人」は英雄の苦悩、闘争から勝利と言う王道ストーリー。続く「復活」では先の英雄は既に死んでおり、そこから「復活」へと続く曲。交響曲第6番「悲劇的」は英雄の闘争から劇的な死を描いています。

マーラーのテーマが「人」である事が良くわかります。

この「人」の想いを直情的にかつ凄まじいエネルギーで放出する音楽なので、聴く側としてはこれほどシンプルに心を揺さぶられる音楽も無いのではないでしょうか。

ただし、悪く言えば「大げさ」で「暑苦しい」音楽なので、その辺が苦手と言う人も居ます。